TOP
 ごあいさつ
 150年の歴史
 会社概要
 業務案内
 施工実績−1
 施工実績−2
 お問い合わせ
  150年の歴史  

  日本で最初にペンキ塗装された建造物は、開港当時アメリカ合衆国が領事館をおいた、神奈川区高島台にある本覚寺の山門であるとされていましたが、当社に代々伝わる「本邦ペンキ塗業由来記」という冊子によれば、それよりも5年ほど前、ペリー2度目の来航の1854年(嘉永7年)そのペリーらを迎えるために建てられた横浜応接所で、初めてのペンキ塗装が行われたのです。
「本邦ペンキ塗業由来記」 「横浜応接所ペリー供応の図」
 
 
  ペリーの2度目の来航には、日米和親条約の調印という大きな目的がありました。その調印式を執り行うために急きょ建てられた応接所は、先年久里浜で使用された古材を再利用したもので、わずか4日間で建てられました。あまりの突貫工事に、みすぼらしく見えてしまったのか、普請奉行は当時としては前代未聞の西洋式ペンキ塗装を試みることを決定。江戸中の塗工を物色し、村田安房守邸に出入りしていた渋塗職人の町田辰五郎に白羽の矢をたてました。
ペンキとは何かすらよく知られていなかった時代です。辰五郎は研究に研究をかさね、四苦八苦してつや出しなどを試みますが、なかなか効果が上がりません。そこで「由来記」によれば、「通訳コスカルドを利してコンテエ氏に頼み米船アンダリア号よりペンキと油を求め、通訳ヰルリアムスの指示を以って外人職人より伝授を受け塗装工事を完了した。」ということです。
アメリカの職人から受けた即席の手ほどきと辰五郎本人の工夫によって、3月3日の調印式の約1か月前、2月6日に工事は完了、無事に日米和親条約は調印されました。 この努力が認められ、辰五郎は幕府より日本人としてただ一人、各国公使館からペンキ・材料を買い入れる特権を与えられました。

その当時、辰五郎が請け負った工事には、応接所を皮切りに、各国大使館、英国病院、英一番館、亜米一・三・八番館など多数あり、多忙をきわめました。 1869年(明治2年)になると、辰五郎はペンキ塗装の将来性を考え、ペンキ塗元締めの特権を政府に返上し、自由取引とするよう働きかけました。同時に後進の育成に力をそそぎました。そして、長女を櫻井銀次郎に嫁がせ、銀次郎に自分の跡を継がせたのです。

辰五郎と銀次郎のふたりが行った工事をみると、まさに文明開化の香りただようものばかりです。
横浜燈台をはじめとして紀州潮岬、犬吠崎、御前崎、観音崎、野島崎など各地の灯台。横浜税関、裁判所、高島町玉川上水上屋、横浜本町町会所、永代橋日本銀行、番町英国公使館などの官公庁。そして東京丸の内鹿鳴館。西洋からおとずれた新しい文化と日本人の出合いの場には、必ずといっていいほどふたりの姿があったはずです。
塗銀第三代櫻井銀次郎は、小さいころから父親たちの仕事を手伝って官民の仕事を手広くこなし、神奈川県ペンキ請負業組合長などを歴任しました。1930年(昭和5年)には、全国塗装連合会において“塗工のさきがけ”として表彰を受けました。そして1951年(昭和26年)4月、櫻井泰太郎が塗銀第四代として営業を継承しました。

 
  その後、以下のように新たな歴史を加えています。

1967年 (昭和42年) 7月 有限会社櫻井塗装工業所を設立
1980年 (昭和55年) 4月 商工会議所より創業100年の歴史をもつ企業として表彰
1981年 (昭和56年) 10月 資本金1,000万円にて株式会社櫻井塗装工業所と組織変更
1982年 (昭和57年) 4月 新社屋落成
1988年 (昭和63年) 4月 資本金1,500万円に増資
1989年 (平成元年) 4月 資本金2,000万円に増資
1990年 (平成2年) 2月 第2社屋完成
1993年 (平成5年) 8月 資本金3,000万円に増資
1994年 (平成6年) 3月 東京支店開設
1999年 (平成11年) 4月 資本金4,000万円に増資
2003年 (平成15年) 6月 櫻井富雄が塗銀第五代として代表取締役に就任
2006年 (平成18年) 5月 資本金5,000万円に増資
2007年 (平成19年) 3月 東京支店を西新宿へ移転
“塗工のさきがけ”として
第三代櫻井銀次郎に贈られた胸像